昭和47年5月21日 特別奉修委員
                                     中村良一


このようにして、日曜たんべんに、特別奉修委員の方たちが、あー、お取次ぎをさしてもろうて御祈念をさしてもらうという。思いますことは、もう、実に頼もしいという事ですよね。これは、私じゃない、おそらく、神様が頼もしいことだと喜んでくださっていることだと思いますよね。特別の奉仕と、教会を中心にした、しかもその中心である、私の、とりわけ健康なことを祈り願ってくださるというのですから、もう、こんな、頼もしいことはありませんよね。しかも、皆さん、これだけ人数を揃えて、勢信心をなさるというのですから、こらもう、本当に頼もしい限りであります。んー、実を言うと、私の身体のことやら、ま、願いなさらんなら願いなさらんで良か訳なんですけどね、なぜって、私が、そこのところを、んー、もう本当に、神様のご都合と思うておりますからね、どうあっても。先日もあの、についてあの、親先生の健康のことをというお取次ぎがありますから、その事を、やはりお取次ぎさせていただいておりましたらね。もう、ご心願に、皆さん、ご覧になったことがあるでしょうかね。あの、歌舞伎十八番に、助六の出るお芝居がありますよ、ね。紫の鉢巻をして、蛇の目の傘を持って、あの花道の七三のところで、こう、決ったところを頂くんです。あの、鉢巻というのは、あれは、あの、病気をしておるという印を現すわけなんですね。鉢巻というものは。ね。ですから、あの、私の、その、例えば、病気という事は、いわゆる、あの紫の鉢巻ですかね。えー、安心の病気だと。まあ、言うならば、勿論、傘までもっとる事ですからね、いよいよ安心だと、ね。えー、だから、問題は、いうなら、神様のご都合に他ならないのだと。と、私は頂いとりますから、なら、例えば、糖尿病です。それこそ、安静を言われるぐらいにひどかったときでも、やはり、甘いものも、辛いものも、やっぱり、適当に頂いてまいりましたが、これは、そういう糖尿病だから、こうだと、医学的な、あー、一つの、おー、思い込みと言うかね、そういうものを、観念ですよ、いわゆるね。そういう観念ではないから、もう、神様のご都合だという観念なんですから。もうだから、ここでは、糖尿病になっておかなければいけないのだという頂き方をしてるわけですが、ですからその事を、(全快祈ってくださるという、くだらないというような事は、?)まあ、どうでもいい、いわば良い訳なんです。けども、これは、結局、私の事を祈って下さるという事は、教会のことを祈ってくださることにも繋がるという事は、皆さんが、やはり、力を受けられるという事でもあるのです。
昨夜、あー、菊栄会でございましたから、えー、文雄さんが、ここへ泊まらせていただくと言うて、必ず、済みましてから、十ニ時ごろからでございましたでしょうか。高橋さんと二人で、私の寝室にやってきましてから、あー、そして、一時間も、その上も足を揉んでくれましたでしょう。ながらその、どうでも親先生、ちっとばかり、その運動してもらわにゃ出けんて、足がこげん悪うありなさるのに。もう、この、(ここん右だれ境内でも良いから、?)こうこやって、ぐるぐる回りなさってからね。ところがあんた、「そげな、あの、散歩どんするごたる暇が、私は無かじゃないの」ち言うてから、「無かち言うちから、あーた、つくりなさらな、何のありまっしょかい」ち言うわけで、まあ言い合いましたけど、「なしや」ち私が言うたら、そん、「こげんして、あーた、足が痛む、しゃっち、毎晩、誰か揉まにゃ出来ん」ち言うて。「なしあんたどん、足もむとば苦にばししとるの」ち、私が言いましたら、「いいや、そら、やっぱ、ある意味じゃ、ちったこう、楽しかごたる風で」、私は、私自身はどうかというと、一つも苦しんでないのですからね。もう、汗が、もう下がってから、揉んでもらう楽しみというか、もう、それはもう、こげん足が悪うなからなければ、味わうことの出来ないほどしの、まあ、言うならば、肩の凝ったときに揉んでもらう、あの気持ちなんですよ。もう、「そりゃ、もう、ほんなごつ、それこそ天国に行くごと、私は気持ちの良かつです。私も、こげん嬉しいし、なら、御用いただく、あんたどんも、ちっとばかり楽しくなりゃ、いいじゃないの、そっで。」と言った事ですけれどね。んー、それなんです、皆さんの場合。ね。こうやって、特別奉修、また御祈念が済んで、また一時時間かけてから、、又、お初穂包んでから、また、お願いせんならんという事がですね。えー、だから、ほんとに、それを有難いと思い、楽しいと思うちょるだけで良い訳なんですよ。ね。だから、神様は頼もしいと思うておられる。ね。だから、問題は、私の病気のこつなんか、どうでもいいのだと。ね。私自身が何か、そういう受け取り方をしてるんだから。ね。良うなろうとも思わなければ、どうという事もない。もう、神様のご都合だと頂いて、しかも、ほんなら、こうやって足が痛い、こうやって、でなからなければ、いただけないほどしの、まあ、快楽といいましょうかね。本当に快楽。もう、そら、何とも言えん、んー、その気持ちがいい。ほんならそれば、ほんとまた揉まにゃんち言うちから、苦に成るなら、コリを積ませることにもなるばってん。で、あんたどんが、揉むとが苦になるごたるなら、ね。それもまた、あんたも、結構、楽しみよるとじゃけんで、ほっであーた、あんたどんもおかげ、私もおかげで、良いじゃないかと言って、まあ、申しましたことですけども、私は、その通りだと思うのです、信心は。ね。ですから、特別な信心さして貰うち言う。回れることが楽しいのである。有難いのである。もう、はよ、良うなってもらうと、もうこげな、こげな御祈念やらせんで良かばってん、てんなんてんち言うようなものが、さらさらあってはならない。また、あるごたるなら、もう止めたほうが良いしね。んー、その特別奉修委員にでも参加して、特別の御祈念さしてもらう、その事が有難い。私自身は、今言うように、助六の、あの、じゃないですけれども、病気そのものが、いわば、安心、心配になるお病気ではないという事。それは、私の観念がそうなんだから。ね。神様のご都合だから。いや、私は、今、糖尿病であっておらなければいけない。また、その事実がいくつもあるということです。私が、もう健康で、ちゃんとしとりゃ、もう絶対、教会づきあいなんか、やはり、教会長がするのが当然です。他所からも教会長が来てもらうのですら。例えば、御大祭ひとつとっても、ね。けども、私が、もう、こうやって、えー、糖尿病であったり、病気勝ちであるという事を、皆さんご承知だから、承知しておられるのですよね。本部あたりでも、私が、なら、あー、と言ったら、そら、ひょうっとすると、また、お話に来てくれというかも知れん。どこどこに、お話廻ってくれち、言うようなことにもなりかねないのですけれども、お話を聞きたいなら、ここへこにゃ出来ん。私の話は、絶対もう、ここでなからにゃ出来ない話だというふうに、私は、まあ、自分自身思っておりますけれどもね。ですから、このことが、本当に神様が頼もしいと、いよいよ思ってくださる。そういう、私は、内容の信心を皆さんがなさっておらなければ、だから、いけないことですよね。どうぞ。